中日本アパレルシステムサイエンスとアパレルCADの歴史小話ー2

前回は1972年にNASSがアパレルコンピュータグレーディングの共同利用センターとして設立されてスタートしたというお話をさせていただきました。今回はその後どのような流れでアパレルCADが利用されてきたのかということについて、ざっくりとまとめていきたいと思います。

ミニコンピュータ DEC PDP-7 Wikipediaより

1975年にミニコンピュータ版アパレルCADシステムが東レ(株)ACS室から販売が開始されたそうです。(東レACS:会社案内より
ミニコンピュータとは、1960年代にアメリカの企業によって開発された小型の家庭用冷蔵庫ほどの大きさのコンピュータのことです。1964年にはDEC社の12ビットのPDP-8という機種が16,000ドルで発売されていたということで、当時1$=360円の固定相場だったということは当時の換算で1台576万円という計算になります。

その後、1960年代後半から1970年代半ばまで日本国内でも、日立・富士通・日本電気(現・NEC)などのメーカーが次々とミニコンピュータ(ミニコン)を発表していきます。そういったミニコンにアパレルCADシステムが実装され始めたのが1975年からということですが、前回にも書いていた通り、当時は数千万の初期投資がかかったそうです。

1972年 岐阜県八百津町大船神社のだんじり Wikipediaより

日本のファッション・アパレル業界はというと、1970年代から既製服が急速に普及していきました。【anan】【non-no】【JJ】といった女性ファッション誌、70年代後半には男性誌として【POPEYE】が創刊されて、【BEAMS】【SHIPS】などのショップがスタートしたのもこの時期です。1975年にはカラーテレビの普及率は90%を超えていたということなので、テレビや雑誌のファッション情報が手に入りやすくなっていったことでしょう。

東レ(株)ACS室のアパレルCADについては、その後1988年にDOS/V版・1992年にEWS(Engineering Workstation)版が販売開始されていきますが、操作そのものにまだまだ専門的な知識スキルが必要であったようです。そのためパターン技術とコンピュータスキルの両方を持っている人は非常に少なかったのではないでしょうか。

そのため手でパターンを引き、取り込んでグレーディングを引き受けるアパレルコンピュータグレーディングのデータセンターとしてNASSをご利用いただく機会が増えていきました。

AIで画像生成した1980年代の洋服売り場の様子

1972年までの高度経済成長期を経て1986年12月から1991年2月頃までのバブル経済期くらいまで継続して効率化と大量生産が求められていたのでしょう。「既製服は作れば作るほど売れてた。」なんていう話も聞いたことがありますが、まだまだアパレルCADの本格的な普及にはもう少し時間がかかっていたようです。

40代・50代くらいの世代の方々は、1970年代後半や1980年代ならば子供時代の記憶から少しイメージができてくるタイミングになってくるのではないでしょうか。ファッションもどんどん多様に、そして物が充実して安く買えるようになって、レジャーもとても盛んだったように思います。

次回は、いよいよ本格的にアパレルCADの普及が始まっていく90年代から、現在までのことを書いていきます。

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